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「アデルの恋の物語」1975年フランス製作

最近は恋に恋するお年頃も低年齢化しているのだろうか。
恋に恋するくらいなら可愛いものだが、「アデルの恋の物語」は恋に魂を捧げてしまった女の物語だ。

アデル・ユーゴー。19世紀フランスの詩人・作家・思想家にして政治家ヴィクトル・ユーゴーの末子として生まれる。
女ながら父譲りの気質と才能の片鱗を持ちあわせ、
なおかつ、偉大な父の影と家族の不遇の影響を浴びて育ったアデルが家出したところから物語は始まる。

大西洋を越えて、イギリス領カナダのハリファクスに上陸したアデル。
その目はすでに何かに憑りつかれた色を帯びている。
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ミス・ルーリーと名乗り、探偵興信所にイギリス人士官ピンソンの女性関係を調べるように依頼したり、
書店で紙を買う時にはピンソンの評判を訊いたり、
下宿の主人にピンソンへの手紙を渡すよう頼んだり、何かとピンソンを気にしている。

それもそのはず。彼はアデルにとって初めての男であり、結婚を前提にした恋人だった。
が、
ピンソンは放蕩者で借金まみれの女たらしで、父ユーゴーは軽蔑していた。
しかし、アデルは彼との結婚を望んでいる、というより、結婚に頑なな執着をみせているのだ。それはなぜか。

アデルを演じる当時18~9歳のイザベル・アジャーニの存在感がはんぱない。
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この映画をまるごとイザベル・アジャーニ色に染め上げた。
若々しい輪郭と眼が恋の狂気を漂わせて、恐ろしさより、さらに哀れさよりも、
アデルが透明な自己の内界に感電し果てる姿を強烈に現している。

彼女の恋は、確かにピンソンを対象としていたが、ピンソンに拒絶されてからも失恋することなく、
むしろ違う恋へと移っていく。
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絶望的であればあるほど、恋は恋そのものを対象にして、やがてピンソンを通り越してしまう。
つまりアデルはピンソンがいなくても、恋を続け、恋のためにだけ生きられるという狂人になってしまうのだ。

物語の筋だけ見れば、完璧にストーカー女である。
売春婦と戯れるピンソンを盗み見し、彼にすげなくされても金銭を貢いだり、
士官宿舎に忍び込んで彼の士官服に手紙を入れたり、男装して士官のパーティに紛れこんだり、
売春婦を彼の部屋に贈ったり、果てはピンソンの婚約相手の家に妊婦に扮して乗り込み破談にしたり、
インチキ催眠術師に頼もうとしたり、所持金がなくなっても彼の居る町から離れられずに彷徨する。

この映画がただのストーカー女の物語でないのは、
彼女が「私の宗教は恋」と言い切るまでの過程を彼女の日記を綴る姿で丁寧に追っているおかげだ。
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日記を書きながら彼女は自分の言葉に呑まれていく。
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さながら彼女が13歳の時に水死した姉レオポルディーヌ(当時19歳で新婚で夫も共に水死)のように。

そこには痛々しくも恋を魂の深みに置いて仕舞い込む姿があり、
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その結果が人の世では、身の破滅という無残であることも示される。
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自己の恋の世界に旅立ってしまったアデルは熱帯のサルバドル島で恋するピンソンを目の前にして通り過ぎる。
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彼女の恋はもう彼を必要としないどころか、誰をも必要としない。
ただ肉体だけが抜け殻のように、あてどもなくさまよっている。

映画は彼女が現地の女によってフランスに連れ帰され、亡命先からパリに戻った父と再会したのち、
精神病院で家族の誰よりも長生きし、暗号化した日記を書き続けて第一次大戦中に亡くなったことを告げて終わる。

ラストシーンはガーンジー島でのアデルだ。
家出前に書いた日記の一文、「若い娘が古い世界を捨てて新しい世界に旅立つのだ。恋人に会うために。」
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確かに彼女は旅立った。人の世を捨て、自分の恋を魂に焼き付けた世界に。

中学生のときに、わざわざ映画館で見た理由はもう分からない。
こういう恋もあるのを知るために、映画に手招きされたのかもしれない。


今回のプラスワン

フランスの首都パリにはヴィクトル・ユーゴー通り(Avenue Victor-Hugo)という長い大通りがある。
有名なシャルル・ド・ゴール広場の凱旋門から南西へ約1.8㎞ほど伸びる、
パリ16区の高級住宅街の並木付きの瀟洒な通りだ。
車道はそれほど広くない。
1881年2月に命名されている。ユーゴーは1885年に亡くなっているので生前に大通りに自分の名をつけられたことになる。
いかに人気があったか、偉大な影響を残したか、という証明みたいなものか。

なにしろ彼のお葬式は国葬だったのだから、古くはナポレオン級、今でいうなら大統領級だ。
凱旋門に一晩安置されたユーゴーの棺↓
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そんな彼も、長男は夭折、次兄が自分の妻に恋して精神を病み自殺、長女は新婚の相手と共に19歳で水死、次女アデルは発狂、妻は不倫(ユーゴー自身も愛人が多数いて、とりわけ女優ジュリエット・ドルエは生涯を彼を支えて生きた)

これを薄幸と片づけるべきか、作家の肥やしになったと見るべきか。
ユーゴーも自分で「波乱万丈だった」と言っているから、後者ではないかと思える。

パリには歴史上の人物、政治家・文化人、あるいは日付そのものを冠した通り&広場&建築物が山のようにある。
文学関係だけでも、
エミール・ゾラ通り(Avenue Émile Zola)、
アレクサンドル・デュマ通り(Rue Alexandre Dumas)、
モンテーニュ大通り (Avenue Montaigne)、
バルザック通り(Rue Balzac)
ヴォルテール通り (Quai Voltaire)
ディドロ大通り (Boulevard Diderot)
フランソワ=モーリアック通り (Quai François-Mauriac)
サンテグジュペリ通り (Quai Saint-Exupéry)
ステファヌ・マラルメ大通り (Avenue Stéphane-Mallarmé)

ちなみに、道りにも種類があって
ブールヴァールBoulevard=城壁あとを通りにした周回道路。
アヴニューAvenue=並木のある大通り。
リュRue=普通の一般の道。
パサージュ=アーケード街・横町。
アンパス=行き止まり・袋小路。
ケQuai=河岸通り。

「レ・ミゼラブル」はたいへんな大河小説で、読んだけど内容はほとんど忘れてしまった…。
すみません、ユーゴー。

(元記事は2013年10月19日に書かれました・エントリー731)
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「源氏物語」1987年日本アニメ

世界的にも超有名、世界最古の小説と位置づける人さえいるあの「源氏物語」
プレイボーイで有名な光源氏の青年時代の恋模様をアニメで描いた映画だ。

なんという美しさ
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時代考証を踏まえた上で、
光源氏を「自らの想いのままに行動する自由人」として、結束しない髪、耳にピアス、小さな口に紅をさし、
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女と見間違うほど美しい青年にデザインしたのはアニメならではの手法だろう。
おかげで、彼が「私は何をしても許される身なのです」と言っても、そのようですねぇと納得してしまう。
生身の人間がこれを口にして生々しい厭らしさがあっては、源氏ではないのだ。

杉井ギサブロー監督が狙った長閑な横PAN演出、
CGを駆使した背景美術、
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林静一のキャラクター原案、名倉靖博のキャラクターデザイン、
きぬずれの音、そして細野晴臣の音楽は
今のワタクシにとって癒し以外のなにものでもない。

映画には杉井流の完璧な王朝の美の世界があった。髪の一筋一筋が微妙なニュアンスを持って美しい。
それが抑制の効いた動きとあいまって、徹底的に上品なエロスを醸し出す。

この映画では源氏と六人の女性との恋模様が描かれている。
まず「夕顔」、彼女は逢瀬の最中に亡くなってしまう。
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源氏の亡き母、桐壷にそっくりの「藤壷」
彼女は源氏の父帝の妻の一人ですから、継母ですが、源氏が執拗に迫って身ごもってしまう。
父帝はそれを知ってか知らずか、産まれた男児の後見を源氏に託して逝去。
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後に彼女は髪を切って、仏門に入る。

源氏の正妻「葵の上」。政略結婚だったのか、今一つ夫婦の愛が育たない二人。
六条御息所の生霊に命を脅かされながら源氏の子を産んだことで、やっと夫婦らしくなるも他界。
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↑これは六条御息所が憑依しているので目付きが怖い。

元東宮の妃だった「六条御息所」
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カーリーヘアで情熱的な大人の女として描かれる。
葵の上を生霊となって襲った我が身を怖れ、斎宮になった娘と共に伊勢に去ってしまう。

源氏が「ほかの誰にもどこにも渡したくない」として引き取った「紫の上」
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最初こそ「このロリコンめっ」とあきれるが、紫の姫は藤壷によく似ているだけでなく
芯のしっかりした女に成長していく。

そして「朧月夜の君」こと、弘徽殿の六の姫で、東宮(のちに帝)の妻!
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源氏が大胆なのか、六の姫が大胆なのか
あるいは二人とも大胆なのか。
逢引きを姫の父に見つかっても、源氏はさらりと和歌を詠んで扇を優雅に投げ渡す。
このスキャンダルが帝への反逆罪に問われ、彼はすべてを紫の上に頼んで須磨へ流罪になる。
 
源氏はそれぞれ本気で恋をしている。
遊びではないらしい。
源氏の付き人、惟光↓が「本当が一つだけだと、面倒を産まずに済むのですがね」と皮肉を言っても
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源氏本人は真剣に悩んでいるのがおかしい。

そんな光源氏だが、桜の花びらを幻視するたびに女性との別れが訪れる。
どうやら幼い日に母・桐壷を亡くした思い出と桜の花びらを樹のうろに閉じ込めた行為が
彼の女性に対する原風景を作ったらしい。
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ラスト近くで紫の上と結ばれた源氏は夢か現か、幽体離脱して京の都を俯瞰する。
(ここで彼のおヌードがあるのだが、それだけは美しいとはいえない。半端にマッチョだ。)

さらに彼は巨大な幻影と対峙する。青い太陽(あるいは月か)、そして大きな桜の樹。
やがて彼は舞う。
扇が現れ、烏帽子に衣冠束帯が現れ、源氏は桜と対決するかの如く、堂々と舞う。輝いて消滅する桜。

彼は亡き母への想いを、去って行った女達への想いを、昇華したのだろうか。


今回のプラスワン

高校時代などは「源氏物語」といえば
「非生産性の象徴(最上級貴族で詩歌管弦するのが仕事)マザコン光源氏」というキャラクターが好きになれず
ついでに
「古文のテストで紫式部の比喩・隠喩・遠回しで優雅な古語表現に苦しめられる忌まわしさ」がかさなって
源氏物語を敬遠していたフシはある。

谷崎潤一郎訳「源氏物語」を読んでみたりしたが、ついに琴線に触れずじまいだった。

しかし、人間年を取ると丸くなったのか。
光源氏のキャラクターを「マメ男で、本気のタコ足配線が得意技」
「宮中の権力抗争でスキャンダル起こして、弘徽殿女御にやられちゃったか」などと
芸能界&政界視点で楽しめるようになっていた。

これは夢枕獏原作・岡野玲子の漫画「陰陽師」のおかげかもしれない。
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途中から物凄い勢いで岡野ワールド全開になり
たいへんおもしろいことになった漫画だ。

平安時代&王朝文化は、あまりにも古代で、
文章で読んでも、た易くイメージ出来ない部分が多いのが難点だった。
が、岡野玲子の「陰陽師」はそれを十分補ってくれた。
しかも、彼女の当時の絵はこの映画と通じるかのように、完璧な王朝の美と象徴的な陰陽の世界を持っていた。

偶然にもワタクシの本棚にまだ読んでない「十二単を着た悪魔」がある。
「源氏物語」での悪役、弘徽殿女御を現実的なキャリアウーマンとして書いた小説らしい。
タイトルは、映画「プラダを着た悪魔」から取ったかなと推測して後書きだけ読んだら、そうだった。
母が勝手に置いていって数年放りっぱなしにしている。
この機会にちょっと読んでみようかと思っている最中だ。

(元記事は2013年10月5日に書かれました・エントリー728)

その後、読んでみたが、所詮はそこそこデキる青年がやる気出ました的オチで何かと説教くさい。
弘徽殿の胸のすくような活躍を期待しちゃいけませんでしたね。はい。

「血とバラ」1960年フランス・イタリア合作

一応、吸血鬼映画なので恐怖映画枠に入れようかと思案しましたが、どーみても恐怖映画ではありません

むしろ時を越えた恋物語という印象。

だってねぇ…時代は第2次世界大戦後、立派に大型旅客用飛行機が飛んでるシーンから始まるのですよ。
現代風ゴシックと位置づけるにしても、けだるい映像とけだるい展開はそれほどゴシックでない。
むしろ耽美です
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血まみれシーンを期待してはならない。かわりに幻想的なモノクロシーンが楽しい。

原題「Et mourir de plaisir」あるいは「Blood and Roses」(英語吹き替え用のタイトルかな?)

ローマ郊外の城に婚約中のカップルが居る。
カーンシュタイン家の若い当主レオポルド↓と美しいジョアンナ↓(黒髪の女)。
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婚約記念パーティに花火を打ち上げるため花火師が呼ばれている。
彼が提案したのは墓地の上の丘一帯を光で染めるというものだった。

その墓地に関しては古い伝説があった。
レオポルドの従妹、カミーラ↓や招待した医師達を交えて伝説を語り合う。
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それによると、カーンシュタイン家は吸血一族で、1759年に血を吸われるのに反抗した農民達により、
墓で眠っていたところを一網打尽にされて、吸血を廃業したというものだ。
ただ一人、ミラーカという女だけが難を逃れたという。
ミラーカの肖像画があるが、カミーラは肖像画の主と瓜二つなのだ。

この辺はちょっと不気味ムードが漂って、「いよいよ女吸血鬼の登場か?」と期待したら肩すかしです。

で、いきなり婚約パーティ。
仮装した人々のカオス空間になっています。例の花火が打ちあがり、皆さん大喜び!
ところが、
戦争中にドイツ軍が埋めた地雷が爆発、花火より派手なことになってしまいます。
そのころカミーラはレオポルドへの想いが募り、やけになったのか、肖像画ミラーカと同じ白いドレスを着る↓と、
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あら不思議。
彼女は爆発で封印が解かれたミラーカの棺まで導かれていきます。
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これが実に不思議な絵で、まだ小規模な爆発や花火の噴出中の墓地を白いドレスの女が歩いて行くのです。
監督ロジェ・ヴァディム、
頭のネジが何本か抜けているように思えてなりません(褒め言葉)。

そうして霊魂がどうのこうのモノローグが続いてる最中にミラーカはカミーラの魂を乗っ取ったわけです。
吸血シーンも血の一滴もありません。これが監督の美学なのでしょう。

カミーラの行動がおかしくなり、城の奉公人達は吸血鬼伝説を思い出します。
その中の美少女(女吸血鬼が欲しくなるような可憐さです!)が転落死状態で見つかると、
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マジで吸血鬼の仕業と決めつけて、
10歳くらいの仲良し少女達↓(これがまたかわいい!)はニンニクを首に巻きつける始末。
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さてカミーラになったミラーカは何を狙っているかというと、やっぱりレオポルド。
そのために、今度はジョアンナに乗り移らねばならない。
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ジョアンナの唇に一滴ついた血を接吻で吸い取るなど、
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うっとりな耽美なシーンが続きます。

そして、けだるい展開の中で、いきなり登場するジョアンナの夢のモノクロシーン。
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これは悪夢に近いのに、たいへん美しい。
特に窓の外が水面になっていて、死んだ美少女が誘うようにジョアンナを呼ぶ。
長い廊下に並ぶ女達はこれまでミラーカが手に掛けた女なのか。
最後に現れるトンデモな手術台の上の女。
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それはカミーラの死を暗示している。
そのとおりに、カミーラは墓地に彷徨い出て、爆弾処理の爆発に巻き込まれ、柵の杭に胸を刺して絶命するのだが、
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これまた監督の美学が発揮されて、ちっとも怖くもグロテスクでもない。ひたすら美しい。

そして新婚旅行(?)に出たらしいレオポルドとジョアンナなのだが…、彼女の魂はミラーカであるようだ。
その演出はバラの花が瞬く間に枯れて色褪せるシーンに暗示されている。

これほど血の流れない吸血鬼映画も珍しいだろう。
そして、これほど美しい吸血鬼映画も珍しい。

ワタクシは時々思うのデス。
もしもロジェ・ヴァディムが萩尾望都の「ポーの一族」を映画化していたら…、と。
おそらく展開はもたつくものの、どこを切り取っても「耽美」としかいいようのない映像を撮ること間違いないでしょう。

そんな妄想に浸りながら、けだるいフィルムを楽しむのが、ワタクシの夏のストレス解消なのです。


今回のプラスワン

「吸血処女イレーナ 鮮血のエクスタシー」の監督といい、
本作のロジェ・ヴァディムといい、
欧州には「緩く、けだるく、美しく」まとめて「お耽美」をモットーにしているタイプの監督群があるに違いない。

その最高峰がイタリアのルキノ・ヴィスコンティと思えるのだが、
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彼の場合はお貴族さまゆえか、「退廃、華麗、美しく」であり、たんなる耽美でないところがヴィスコンティ。
しかし、
ヴァディム、大作を撮るわけでもなく、ひたすらキッチュな「バーバレラ」を遺したように
自らの美学を通したのも、さすがと言いたい。
つーか、
美女をとっかえひっかえ自分の映画の主役にして、妻にして、恋人にして、プレイボーイの名を馳せたヴァディムの生涯があっぱれなのだ。

自分の世界に正直に生きたところは、スティーブ・ジョブズと張り合えそうな気がする…。



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(1998/11/11)
Mel Ferrer、Elsa Martinelli 他

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(元記事は2013年8月24日に書かれました・エントリー725)

「風の丘を越えて 西便制」1993年韓国製作

うっふん。
またしてもマイナー映画の登場です。
数回に一度は観たことも聞いたこともないような映画をホイッとあげてしまうのは悪癖か、それとも遊び心か。

それはどうでもいいとして、「西便制」をなんと読めばいいのやら。
答えは「ソピョンジェ」です。
韓国の伝統芸能パンソリの流派の一つですね。
で、「パンソリ」ってなんですか。
答えは歌劇です。
歌い手は一人、伴奏の太鼓も一人。
いわば二人だけで物語を歌いあげる芸能です。
19世紀には大人気だったパンソリも
20世紀になると他の娯楽に押されてしまうという、どこの国にもある伝統芸能の衰退期に入ります。

これはそんな時期のパンソリ芸能者の一家族の物語。
例によって、哀しくも凄味のある映画です。

父親=パンソリにかけては妥協のない姿勢を貫く男
子供・姉=養女で、歌い手として才能を磨く
子供・弟=姉と血のつながらない養子で、太鼓の腕を磨く
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つまり3人とも血のつながらない家族です。
それは今でもよくあることですが、彼らが拠り所にしているパンソリの人気は落ちる一方、貧しい放浪生活、見通しのない将来、耐えきれなくなった弟は父と姉を捨てて出奔してしまう。
(廃屋で練習する父と姉↓)
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分かる、それは分かる。
美しい自然をバックに延々と旅するシーンの寂しさときたら、もう泣きたくなるくらい寂しい。心細い。
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韓国映画の巨匠・林 權澤(イム・グォンテク)の重厚な映像が迫るように美しくも、どこか寂しい。
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唯一といってもいい幸福の明るいシーンは旅の田舎道の上にあって、歌い出す父につられて、姉が歌う。
興の乗った二人のために弟も太鼓を取り出して伴奏する。歌は珍島アリラン。
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彼らが画面から消えたあとにふっと風が吹いて砂が舞うのが、なんとも哀しいのですが。
さて、弟が去った後、父親がまたすごい。姉を薬で失明させてしまいます。理由は「声に深みがないから」。
そして修行のために雪深い山に籠ってひたすら歌わせる。
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娘のために麓の村で鶏を盗めば、鶏の持ち主が罵倒しに来て、さんざん足蹴にされても
父親は「あの声を聴いたか!腹の底から出ているぞ!」と感心する始末です。
これには参りました。芸のためなら、その身を捨てるのか、親父。

一方、弟は落ち着いた暮らしをしているものの、父と姉への呵責から、二人を探し出します。
すでに父は亡くなり、姉は失明したまま、歌を歌い続けていました。
再会するものの、弟と名乗れないまま、二人はパンソリを始めます。
一方は歌い、一方は太鼓を叩き、合いの手を入れます。
そのシーンの静かな凄味…。

ラストシーンはたいへん壮絶です。雪の川沿いの道を、赤い服の子供に先導されて姉が歩いて行きます。
流れているのは、やはりパンソリですが、地の底を這うような、それはそれは深い情念のこもった歌声。
カメラはどこまでも歩く姉の姿を追い、やがて彼方に消えるまで追います。
まるで冥界へと続く彼女の芸能の道が、そこにありました。
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静かなのに壮絶さがにじむ光景でした。

これを見ることは、私にはもう出来ません。切なすぎて、号泣間違いないからです。


今回のプラスワン

まだ淡路鳴門自動車道の明石海峡大橋が完成する前に、わざわざ神戸のハーバーランドの映画館まで観に行きました。
パンソリが聴きたかったからです。
12歳の時、偶然TVで聴いて、衝撃を受けたからです。

映画の中で、父親が娘のために鶏を盗んできて、サムゲタン↓を作って食べさるシーンがあります。
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彼は娘に、鍋の丸ごと煮込んだ鶏の脚をもいでやります。
これに「ええーーーっ!信じられへん!」と驚いていたのは、一つ前の列にいた20代半ばの女性二人連れ。
一方、「ふふふっ、そうだよねえ、そうだよねえ。」と、うなずいていたのは、
少し前の列にいた50代女性のグループ。
彼女達はおそらく在日のオモニ(お母さん)だったのでしょう。
たいへん懐かしそうにその場面を見ているので、「子供の頃、こうやって食べさせてもらったのかな。」と思いました。

12歳から残っていたパンソリの衝撃は、このあと一年間、ワタクシに「最初の感動に騙される」という
これまた衝撃的な経験をもたらしました。

その結果、ワタクシはどんなに感動しても、それを冷静に観察しているもう一人の自分を育てました。
そのおかげで多少たくましくなった…かも。

(元記事は2013年7月26日に書かれました・エントリー722)

「絹の叫び」1996年フランス製作

日本では超マイナー映画です。
それをわざわざ取り上げたのは、たいへん印象深かったからです。
10年以上も前に一度観たきり。


amazonにあるDVDには副題がついてますね、「絹の叫び/フェティシズムの愛撫」
ちっ、要らぬことを。
確かにフェティシズム要素はあるけど、それが焦点ではありません。

「自分のフェティシズムを理解されたい女」と「それを理解したい男」の理性・知性・情欲・愛がバランスを求めてせめぎあう。
そこがこの映画の魅力であり、スリリングな恋愛映画と言えるでしょう。
欧州映画に特徴的な地味さ、しかし手堅い脚本と演出。
時にモノクロに近い色彩の中に浮かび上がる鮮やかな布地とその光沢。

舞台は1914年のパリ。
窃盗罪で4度目の刑務所暮らしをしているお針子マリー・パンジャマン。
彼女は絹を盗んでは、それで自慰をし、エクスタシーで気を失ったところを逮捕されてきた。
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検察の精神医(おそらく貴族出身で、民族誌学者でも写真家でもある)ガブリエル・ド・ヴィルメールは貴重な症例として
読み書きできないマリーの話を熱心に、そして誠実に聞いていく。
このやりとりがいい。
二人とも、話の対象が際どいものであり、また、個人にとって重要な問題であるのを十分感じている。
だから興味本位や好奇心でなく、互いの知性を賭けた勝負みたいなムードで話をする。
一線を越えたらおしまいになりそうな緊張感のもと、信頼が築かれていく。

マリーをより理解しようと、
ガブリエルはマリーが魅せられたという鋼青色の絹のスカーフを買い求めさえする。
マリーはガブリエルの鉛筆を失敬したり、
刑務所への送還が決まるや、ガブリエルのスカーフのネーム入りの所を噛み千切って、こっそり持っている。
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この辺で、二人の信頼は愛情へと変わったのかもしれません。
刑務所に戻されるマリーが昏倒したさい、ガブリエルはわざわざ介抱しに駆け寄るのですから。
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100分少しの短めの映画に、布をめぐる官能的なシーンが増えていきます。
第一次世界大戦中、ガブリエルはモロッコへ出兵。
現地で負傷して療養しているときも現地の民族衣装を撮影し続ける。
白い衣装は着衣者の動きで、千差万別の顔を見せる。
それはまるで人と布の戯れ。
ついでに彼は戯れのようにアイシャという少女を束の間の恋人にもするが、
この少女の面立ちはマリーと直接似てはいないものの、
知的な目と立ち振る舞いはどこか共通している。
(現代日本の意識では、ロリコンめ!と言われかねないガブリエルですが、
この映画、純愛を描いているわけではないので。)

一方、マリーは刑務所の中で一生懸命に文字を覚えています。
手の中には、かつてガブリエルの机から失敬した一本の鉛筆と布の切れ端。
さて、除隊したガブリエルはマリーの症例を元に本を出版。タイトルは「絹の叫び」。
本は評判を呼び、
出所していたマリーはつたないながらも、率直な文章で手紙を送ります。
しかし、恥ずかしかったのでしょう、
彼女は手紙を返してほしいとガブリエルの家に現れます。
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マリーは理解される喜びを誇りにし、
ガブリエルの本によって多くの人が自分の苦しみを理解することに感謝していました。
性癖や窃盗罪などは社会と彼女の接点がうまく折り合わないだけであって、
ガブリエルはマリーの知性と細やかな心を受け入れるのです。

服飾に学問的視野を広げたガブリエルにとって
マリーは同志のような存在であり、また愛の対象であり、
布を山積みにした研究室で一夜を過ごすわけですが、そこで必要なのが、鋼青色の絹のスカーフ。
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彼女を理解した彼は、自分ではなく絹が役目を果たすことも受け入れるのです。
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しかし、二人の前に多難が訪れます。一つはガブリエルの白内障。
研究一筋の彼にとって、これは致命的な病気。
失明で絶望した彼は自殺。
もう一つは家名。彼の母親は、世間的道徳律そのままに息子の仕事と死に方を認めない。恥ずべきことだと断罪する。
さらにマリーの窃盗は治らない。5度目の刑務所からでたばかりで彼の死を知る。

そして、思わぬ人物。ガブリエルの秘書、セシル。
彼女はたいへん有能で、読み書きはもちろん、教養を身につけた中年女性。
献身的な仕事ぶりの土台に、彼への愛情があるのは間違いありませんが、
自身の立場をわきまえていて、
ひっそりと恋心を隠しているようです。
が、鋼青色のスカーフで結ばれたマリーの手紙を手にすると思わず震えてしまう複雑さ。
嫉妬、あるいは同情、あるいはマリーへの卑下が入り混じったセシル。
彼女の存在はガブリエルとマリーにとって
なんら邪魔にならない存在なのですが、
ラストシーンで、絹のスカーフを同時に握りしめるマリーとセシル。
この二人の女の間に何が通うのか。
それは観客の想像力にゆだねられたままです。
この時のマリーの衣装がとても美しいですね。

本当にちょっとした短いシーンに、いかようにも解釈できるニュアンスがあって
隠れた佳作だと思います。

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セルジョ・カステリット、マリー・トランティニャン 他

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今回のプラスワン

ガブリエルにはモデルがいます。ガエタン・ガティアン・ドゥ・クレランボーです。
クレランボー症候群の名付け親の人です。

それはとこかく、ワタクシの父方の祖母は一年の大半を着物で過ごしていました。
明治生まれで田舎の質実剛健をモットーにし、
野良仕事の時は藍染の着物にモンペというこだわり。
そんな彼女の箪笥は四角く折りたたまれた和装の布ばかりでした。

冬用のネルの腰巻と肌襦袢。あいの季節(春・秋)用の木綿の長襦袢。
夏用の麻とちりめんの単衣。
いずれも上等の品ではないものの、それらを重ねて着ていく祖母の姿を見て育ちました。
母は洋裁が好きで、既製品の服を自分好みに縫い直すほどでした。

いつしか見たことない衣装を見るたびに
その構造・素材・着付け方に関心が行ってしまうようになりました。
その最初が民族衣装でした。
インドのサリーなどは昔から有名でしたから図解など探せばあるのですが、
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たった一つの不満といえば、下着がどのようなものか、ほとんど言及してないことでした。
「ねえねえ、パンティーは?履くの、履かないの?」

言葉にすると、変態チックですね。
しかし、素朴な疑問だったのです。
日本の民族衣装だって、本来はパンティー履かないで着ていたものですから。

そして、素朴な疑問ほどあとに引きずるものかもしれません。
現在、最大の謎となっているのは
全身を布で覆う感じのイスラーム女性の衣装。
あの下に何を着ているのだろうか、と
激しく疑問を抱かずにはいられません。
(シリアに関してだけ、ヤマザキマリさんの「世界の果てでも漫画描き」第2巻で謎が少し解けました。)

世界の果てでも漫画描き 2 エジプト・シリア編 (創美社コミックス)世界の果てでも漫画描き 2 エジプト・シリア編 (創美社コミックス)
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ヤマザキ マリ

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