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「キャリー」1976年アメリカ製作

高校生の時に妹と映画館まで観に行って、おもしろかったけど、肝心のクライマックスで尻のすわりが悪かった映画だ。

キャリー役のシシー・スペイセク
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母親役のパイパー・ローリーの演技が凄い!
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この二人だけのシーンなんて心臓わしづかみの緊迫感だ!
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なのに
いじめっこ役ナンシー・アレンとジョン・トラボルタの軽すぎる悪役おちゃらけぶりで、
映像のトーンが盛り上がるのか盛り下がるのか、ハラハラもののバランス感覚。
これが監督の味なのかもしれないが、クライマックスで出るわ出るわ、デ・パルマ監督の総力を注いだ画面分割&グルグルカメラ効果!
「どうだ!キャリーの怒りが分かるだろ?分かりやすいだろ?これで分からん奴はいないよな?オレ、最高!」みたいなこっぱずかしさまで含んだド迫力。
こ、これがアメリカン…か…?アメリカンピーポゥなのか?
それともジャパニーズの私がおかしいのか?
というわけで、クライマックスシーンを妙に尻のすわりが悪い感覚で眺めるハメになった「キャリー」1976年版。

いやー、いろいろおもしろいが、本筋は哀れな女の子の話だ。

母親はかなり歪んだ狂信者で性に関するすべてを罪悪視、高校ではいじめっこの標的にされ、担任は面倒みつつも、持て余し気味。アメリカの田舎町で、実にしんどい毎日を送る日々。そんな彼女の秘められた超能力が怒りによって爆発炎上、学校と自らの家を血と炎で焼き尽くす。

しょっぱなから体育の授業でさっそく虐められるキャリー。
甘い旋律のタイトルロールは発育の良いアメリカンガールのシャワーシーン。
当時はぼかしが入りまくっていて、それでも衝撃のオープニング。
それはともかくシャワーを使うキャリーは突然の初潮にパニックを起こす。母親が何も教えてないからだ。
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クラスメートがまたひどい。生理用品をキャリーにぶつけて笑いものにする。
体育担当の女教師が、キャリーを哀れに思いつつもいじめっ子の気持ちも分かると言うのがうなずけるほど、シシー・スパイセクの演技がすごい。ぐいぐい引き込まれる。
それに輪をかけて母親が怖い。いっそ、キャリーと母親だけで、この映画OKかもしれん。

ところがドッコイ、ディアドッコイ。

青春映画のかほりがそれを許さない。なにしろ元祖学園ホラー映画だ。
キャリーいじめの罰として、放課後の体練に参加しなければ卒業パーティ(プロムってやつですね)に出さないと体育教師が頑張る。コメディタッチで描かれる体練シーン。
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「やってらんねえ!」とただ一人抜け出すいじめっ子ナンシー・アレン。
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田舎のビッチ女子高生がエロさ全開でボーイフレンド(トラボルタ)に「キャリーが憎い!憎いのよおおおお!」と仕返しをおねだりするシーンたら、まさに暴走青春の一コマ。
一方、いじめたクラスメートの中にも優しいスー(エイミー・アービング)がいて、ボーイフレンド(金髪巻き毛のウィリアム・カット)に「キャリーをプロムにエスコートしてあげて」と頼む。
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誘われたキャリーはためらいながらも、ドレスを自分で縫ったり母親に反抗したり(超能力で母を抑え込む)で、ちょっと応援したくなる。

そしてパーティ当日、いじめっ子たちの計略でプロムの女王に選ばれたキャリー、
騙されたとも気づかずに、まさに幸福の美しさが輝く。
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この時、計略に気づいたスーが止めようとするが、女教師がスーをいじめっ子と勘違いして会場から締め出してしまう。
ここの一連のシーンがずっとスローモーションで、監督の技巧たっぷりな盛り上げが続く。
舞台に上がった彼女に仕掛けられた罠は豚の血シャワーだった。
(以下の写真と動画はグロいのでご注意ください)


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しかもバケツがウィリアム・カットの後頭部を直撃。いじめっ子の部下が囃し立てて会場はわけのわからない爆笑に包まれる。 
さあ!ここからがキャリーの見せ場だッ!…と思ったのですが、正確には監督の映像演出術オンパレードな見せ場!



「あああ、分かりやすい、分かりやすすぎる、あああ、あああ、説明過剰じゃないですか、ちょっと、ちょっと――――!!」

阿鼻叫喚のシーンが華やか(?)に繰り広げられ、夜道を血まみれで家路につくキャリーを襲うエロいバカップルも車もろともあっけなく炎上。なんだ、このさっぱり感。

〆はキャリーの真の見せ場、母親との包丁対決。
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このために先の派手な阿鼻叫喚があったのかと思うくらい、こちらは凄絶。
全くムードが違う。
そしてすべてが終わったと思いきや、スーの恐怖の夢オチシーンが観客のトドメを刺す。
ソフトフォーカスで静かに終わると見せかけて…。
でも、悲鳴を上げながら妹と私の方へ倒れかかってきた隣のカップルの方がよほど怖かったのですが…。


今回のプラスワン

冒頭のシャワーシーンを見ながら、「アメリカンは高校にシャワーがあるのか。しかもお湯!」と文化の違いを感じた16歳の春。
しかも「アメリカン、おっぱい大きい」と体格の違いを思い知った16歳の晩春。
演じている女優は高校生の年を過ぎているにしても、「アメリカン、でけえ」という認識はこの時に刷りこまれた。

そして、シャワーを使いながら、石鹸一個まるごとを体に滑らせて洗うキャリーの姿に驚いた妹と私!

そんな洗い方をするなんて、なんという贅沢(そこか!)
以来、妹はこのやり方を「キャリー洗い」と名付けた。

当時の妹は謎の言語能力を持ち、意味不明な命名を数多くした。
学生時代に二人で下宿をしていた時など、朝シャンが流行りはじめると彼女は冷水しかでない下宿の台所で冬の最中に髪を洗った。
毎朝、台所から気合いのこもった叫びが聴こえる。
「脳死ッッッ!!」
「アジスアベバッッッ!!!」
「スヤツッッ!」
他にもバリエーションがあったが、とにかく彼女は丈夫だった。冷水で洗った頭から湯気が立っていた。
家にシャワーが導入されると、さっそく「キャリー洗い」をしていた。
私が冷水シャワーでキャリー洗いを続けて夏バテになっても
彼女はぴんぴんしていた。
おそらく基礎代謝量に大差があるに違いない。
もちろん妹がはるか上位だ。
 
あれからずいぶん年を取った。
お肌も年相応に弱くなった。冬場は乾燥に悩まされている。
そこで役立っているのが「キャリー洗い」だ。
石鹸はかなり贅沢なアレッポ石鹸を使う。一個500円(税抜)。
シリアが戦乱になり、アレッポの町もひどい事になっている。
アレッポ石鹸は今も作られているだろうか。
明日あたり、いつものスーパーのいつもの場所にあるかどうか確かめたい。
もう夏場もキャリー洗いがラクになってきたのだ。


(末文ながら「キャリー」2013年版は未見です。) 
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「惑星ソラリス」1972年ソヴィエト製作

昨年の夏、孤独な仕事に明け暮れていた私を救ってくれた映画だ。

「惑星ソラリス」、このタイトルは実は日本公開の1977年から知っていた。
しかし、映画館で観ることなく(地方までフィルムがこなかった)、その音楽をラジオで聴いて記憶に刻み付けた。
原作スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』をハヤカワSF文庫で先に読んでしまった。
それでも主演女優タチアナ・ボンダルチュクとバッハの音楽をいつかこの目でこの耳でと思いながら38年。

映画は裏切らなかった。

「惑星ソラリス」は詩だ。映像の一つ一つが詩の一行だ。冒頭の水の中の水草がすでに詩だ。

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映画全体が長い詩だ。165分。水と追憶と理論と感情がおりなす詩が、延々と続く。
監督タルコフスキーはわざと観る側には退屈な映画にしたと言ったらしいが、
それは映像が詩だから、まあ、そうなるわけだ。
そして詩は哲学的な色彩を帯びてくる。

人間とは何か、何が罪なのか、隠しておきたい過去は許してくれないのか。

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惑星ソラリスの表面を覆う「海」を調査する空中ステーション。
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そこに滞在中の科学者達が次々と変調をきたす。ある者は自殺し、ある者はかたくなに事実を否定する。
一体なにがあったのか。
調査に来た科学者クリスはそこにいないはずの人間を目撃する。10歳くらいの少女に幼児、それらは「お客」と呼ばれていて、科学者一人一人と何らかの関係があるらしいが、彼らは触れてくれるなと言いたげに、「お客」現象を見て見ぬふりだ。
そしてクリスの部屋に自殺した妻ハリーの姿をした「お客」が突然現れる。
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ソラリスの「海」がクリスの前にそれを送り込んだ。彼はそれを小型ロケットに入れて葬り去る。
だが、しかし!
再びハリーはやって来る。それを受け入れてしまうクリス、やがて自分が何者か疑問を抱くハリー。
自我の発生に苦しみ自殺を図るが、人間ではないので生きかえってしまう。
それを演じるタチアナの生々しさはおぞましくも、私を捕えて離さなかった。
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ストーリーはゆっくりと展開するが、詩(映像)の力が圧倒的で、見入ってしまった。
鏡、水、故郷の風景、図書室、絵画、無機質なステーション、未来都市を走る首都高速道路、内省的な目をした人々
中でも私にとって絶大な説得力を持つのが夢に出てくるクリスの母だ。
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母はハリーと折り合いが悪かったが、大地に立ち、息子の疲れた腕を洗い、多くを語らず、ただそこにあるべき存在としてあった。それはハリーと同じ存在である。
ソラリス製のハリーが去り、クリスの心に流れ込んだのは涙を流せない故郷なのではないかと、私は思った。
父は天井から落ちる水を頭から滴らせている。
その家のドアを開けるクリス。

ただし、その家は地球の家ではない。ソラリスの海に出来た島に建つ、故郷そっくりの家なのだ。
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このラストシーンに、私はしばらく言葉を失った。
かなり昔からラストシーンについては知っていたが、実際に見ると、言いようのない感情に襲われた。

彼は置き去りにしていたものをソラリスで取り戻す。
それがクリスにとって幸福か否かはどうでもいい。
彼は向き合おうとしなかった哀しみを、新しいものとして向き合うのだろうと、私に予感させて映画は終わった。

私にも向き合うのをためらう哀しみがあり、心が疲れているときにはなかったことにさえしたいと思い、
許しを求めている。
だから、この映画に、詩に、救われる思いがしたのだろう。


今回のプラスワン

ステーションの図書室で浮遊するクリスとハリー。
バッハのコラール前奏曲「イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ」(BWV 639 )の電子音楽が流れる。
好きなシーンの一つ。



東京・首都高速のシーン。
もちろん未来都市の一部として登場する。
今見ると、たいへん新鮮なのはどうしてでしょうね。


追記・主演女優タチアナ・ボンダルチュクをなぜかナタリア・サワーベリャと書いていたので修正しました。
どうやったらこんな間違いを犯すのか…?
ナタリア・サワーベリャって誰やねん…

ただ今引っ越し中

過去記事を削除し、映画記事をup中です。
ほとんど2013年に書いた記事なので、投稿日を過去に指定していましたが、もう面倒くさいのでやめました。
かわりに文末に(元記事は○年○月○日)と、入れてあります。

連載小説「浮き船ガーランドBlog版」はこちらから。
また、加筆訂正&挿絵有りの「浮き船ガーランド」は「小説家になろう!サイト」から、どうぞよろしくお願いいたします。
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「アデルの恋の物語」1975年フランス製作

最近は恋に恋するお年頃も低年齢化しているのだろうか。
恋に恋するくらいなら可愛いものだが、「アデルの恋の物語」は恋に魂を捧げてしまった女の物語だ。

アデル・ユーゴー。19世紀フランスの詩人・作家・思想家にして政治家ヴィクトル・ユーゴーの末子として生まれる。
女ながら父譲りの気質と才能の片鱗を持ちあわせ、
なおかつ、偉大な父の影と家族の不遇の影響を浴びて育ったアデルが家出したところから物語は始まる。

大西洋を越えて、イギリス領カナダのハリファクスに上陸したアデル。
その目はすでに何かに憑りつかれた色を帯びている。
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ミス・ルーリーと名乗り、探偵興信所にイギリス人士官ピンソンの女性関係を調べるように依頼したり、
書店で紙を買う時にはピンソンの評判を訊いたり、
下宿の主人にピンソンへの手紙を渡すよう頼んだり、何かとピンソンを気にしている。

それもそのはず。彼はアデルにとって初めての男であり、結婚を前提にした恋人だった。
が、
ピンソンは放蕩者で借金まみれの女たらしで、父ユーゴーは軽蔑していた。
しかし、アデルは彼との結婚を望んでいる、というより、結婚に頑なな執着をみせているのだ。それはなぜか。

アデルを演じる当時18~9歳のイザベル・アジャーニの存在感がはんぱない。
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この映画をまるごとイザベル・アジャーニ色に染め上げた。
若々しい輪郭と眼が恋の狂気を漂わせて、恐ろしさより、さらに哀れさよりも、
アデルが透明な自己の内界に感電し果てる姿を強烈に現している。

彼女の恋は、確かにピンソンを対象としていたが、ピンソンに拒絶されてからも失恋することなく、
むしろ違う恋へと移っていく。
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絶望的であればあるほど、恋は恋そのものを対象にして、やがてピンソンを通り越してしまう。
つまりアデルはピンソンがいなくても、恋を続け、恋のためにだけ生きられるという狂人になってしまうのだ。

物語の筋だけ見れば、完璧にストーカー女である。
売春婦と戯れるピンソンを盗み見し、彼にすげなくされても金銭を貢いだり、
士官宿舎に忍び込んで彼の士官服に手紙を入れたり、男装して士官のパーティに紛れこんだり、
売春婦を彼の部屋に贈ったり、果てはピンソンの婚約相手の家に妊婦に扮して乗り込み破談にしたり、
インチキ催眠術師に頼もうとしたり、所持金がなくなっても彼の居る町から離れられずに彷徨する。

この映画がただのストーカー女の物語でないのは、
彼女が「私の宗教は恋」と言い切るまでの過程を彼女の日記を綴る姿で丁寧に追っているおかげだ。
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日記を書きながら彼女は自分の言葉に呑まれていく。
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さながら彼女が13歳の時に水死した姉レオポルディーヌ(当時19歳で新婚で夫も共に水死)のように。

そこには痛々しくも恋を魂の深みに置いて仕舞い込む姿があり、
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その結果が人の世では、身の破滅という無残であることも示される。
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自己の恋の世界に旅立ってしまったアデルは熱帯のサルバドル島で恋するピンソンを目の前にして通り過ぎる。
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彼女の恋はもう彼を必要としないどころか、誰をも必要としない。
ただ肉体だけが抜け殻のように、あてどもなくさまよっている。

映画は彼女が現地の女によってフランスに連れ帰され、亡命先からパリに戻った父と再会したのち、
精神病院で家族の誰よりも長生きし、暗号化した日記を書き続けて第一次大戦中に亡くなったことを告げて終わる。

ラストシーンはガーンジー島でのアデルだ。
家出前に書いた日記の一文、「若い娘が古い世界を捨てて新しい世界に旅立つのだ。恋人に会うために。」
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確かに彼女は旅立った。人の世を捨て、自分の恋を魂に焼き付けた世界に。

中学生のときに、わざわざ映画館で見た理由はもう分からない。
こういう恋もあるのを知るために、映画に手招きされたのかもしれない。


今回のプラスワン

フランスの首都パリにはヴィクトル・ユーゴー通り(Avenue Victor-Hugo)という長い大通りがある。
有名なシャルル・ド・ゴール広場の凱旋門から南西へ約1.8㎞ほど伸びる、
パリ16区の高級住宅街の並木付きの瀟洒な通りだ。
車道はそれほど広くない。
1881年2月に命名されている。ユーゴーは1885年に亡くなっているので生前に大通りに自分の名をつけられたことになる。
いかに人気があったか、偉大な影響を残したか、という証明みたいなものか。

なにしろ彼のお葬式は国葬だったのだから、古くはナポレオン級、今でいうなら大統領級だ。
凱旋門に一晩安置されたユーゴーの棺↓
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そんな彼も、長男は夭折、次兄が自分の妻に恋して精神を病み自殺、長女は新婚の相手と共に19歳で水死、次女アデルは発狂、妻は不倫(ユーゴー自身も愛人が多数いて、とりわけ女優ジュリエット・ドルエは生涯を彼を支えて生きた)

これを薄幸と片づけるべきか、作家の肥やしになったと見るべきか。
ユーゴーも自分で「波乱万丈だった」と言っているから、後者ではないかと思える。

パリには歴史上の人物、政治家・文化人、あるいは日付そのものを冠した通り&広場&建築物が山のようにある。
文学関係だけでも、
エミール・ゾラ通り(Avenue Émile Zola)、
アレクサンドル・デュマ通り(Rue Alexandre Dumas)、
モンテーニュ大通り (Avenue Montaigne)、
バルザック通り(Rue Balzac)
ヴォルテール通り (Quai Voltaire)
ディドロ大通り (Boulevard Diderot)
フランソワ=モーリアック通り (Quai François-Mauriac)
サンテグジュペリ通り (Quai Saint-Exupéry)
ステファヌ・マラルメ大通り (Avenue Stéphane-Mallarmé)

ちなみに、道りにも種類があって
ブールヴァールBoulevard=城壁あとを通りにした周回道路。
アヴニューAvenue=並木のある大通り。
リュRue=普通の一般の道。
パサージュ=アーケード街・横町。
アンパス=行き止まり・袋小路。
ケQuai=河岸通り。

「レ・ミゼラブル」はたいへんな大河小説で、読んだけど内容はほとんど忘れてしまった…。
すみません、ユーゴー。

(元記事は2013年10月19日に書かれました・エントリー731)

「銀河鉄道の夜」1985年日本アニメ

前回の「源氏物語」に引き続き、杉井ギサブロー監督作品「銀河鉄道の夜」について語ろう。
言わずと知れた宮沢賢治の深淵な世界を
漫画家ますむらひろしの原案と猫キャラクターを使って描いた映画だ。
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正直に申し上げて、ワタクシは宮沢賢治の世界が怖い人間でした。
高校生までは「なんて美しい造語を編み出すのだろう」と、詩集を読んでは気に入った語句を拾ったものでしたが、
ある時から恐ろしくなってしまいました。

「引き込まれたら戻ってこれないかも知れない」

賢治を読み進めると、時々足元に真っ黒な穴が現れて、
それを知らずに踏むとあの世にいってしまうような感覚がしたものです。

この映画をレンタルして見れたのは、横に妹(彼女は宮沢賢治大好き乙女でした)が、いたからです。
そして、猫キャラクターでなければ、やはり見られなかったでしょう。

映画はまさに童話の世界のように、外国の挿絵を思わせ、
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ジョバンニの不安や緊張感、
ささやかな強がりが時にはヒリッと、あるいはジワリと伝わってきます。
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それが、妙に目を離せないフィルムになっていて、先に地雷があるのを分かっていながら
進んでしまうような感覚です。
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銀河鉄道が進む音が恐ろしい。
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カンパネルラの「ザネリもずいぶん走ったけど追いつかなかった」「僕、水筒を忘れてきた」あたりのセリフが恐ろしい。
「お母さんは僕を許して下さるだろうか」のセリフが恐ろしい。
彼が語る「本当のしあわせ」が心をえぐる。
此岸と彼岸の間でこれを問われて、ワタクシはとてもつらい。
泣きたくなる。
賢治の言わんとするところはダイレクトに魂を直撃し、丸裸にする感じがして、つらい。

人間は、本来しあわせを求める生き物だ。
しかし「本当の」がつくことで、しあわせの本質を問われても、すぐに答えが出ない。出せるものでもない。
「本当のしあわせ」はカンパネルラも我々もはっきりと分からないものだ。

映画はそれを置いといて、無言のシーンが続く。
北十字が鮮やかに青く輝き、厳かな音楽が流れる。
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此岸と彼岸の間の世界に住まう人、彼らは幽霊なのか、幻影なのか。
ブリオシン海岸も鳥追い男も盲目の技師も、讃美歌306番を教える老婆も、なぜそこにいるのか理由は定かでないが、いるのだ。

銀河鉄道の乗客ではっきりと死者である幼い姉弟とその家庭教師の部分は一番劇的だ。
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タイタニック号の事故をモチーフとしているだけに生々しい一方で
「本当のしあわせ」の正体に触れるシーンだ。

我々は生きているのではない。生かされている。
何のために生かされているか分かった時が「本当のしあわせ」に至る道だと。
それは時に悲しみを生むと分かっていても。

新世界交響楽、サソリの火、南十字と、「本当のしあわせ」に触れた者たちのシーンは穏やかに悲しい。

悲しみに会うことを恐れるのは人間の本能だろうか。
車内に二人きりになったジョバンニとカンパネルラは繰り返し言う。「僕たちはどこまでも一緒に行こう。」
そう言いながら、カンパネルラは逝ってしまうのだ。

目覚めて、カンパネルラに起こった出来事を知ったジョバンニは彼の心を受け取った。
最後に一緒に旅をした「しあわせ」がジョバンニにはあったので、悲しみが訪れても、彼は走ることができた。
この時、初めて猫キャラクターの正面あおりのレイアウトが登場する。
それは驚くほどに力強い構図だった。
 
エンディングに賢治の「春と修羅」の序の一部が朗読される。
「わたくしといふ現象は 假定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」

そう、青い。ジョバンニは青い猫であり、穏やかな悲しみの色をしてるのだ。




今回のプラスワン

若い時に、妹と見ながら二人して「これ、怖いね」と言ったのは、鳥追い男が叫びながら倒れるシーン
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そいてタイタニックとともに沈んだ家庭教師の独白でした。
そこには、何か、この世で見てはいけないものの気配があったからです。

賢治の世界には、たびたびユーモラスでありながら壮大で透明なイメージが現れて
時には、ワタクシが恐怖を感じる彼岸への入り口が見え隠れしていました。

そんなわけで、数年前まで賢治関連の本を開けなかったのですが、
ある時ネット上で知り合った方が東北へ旅行したおり、宮沢賢治記念館で撮った写真を公開してくださり、
ワタクシの賢治に対するイメージが180度ひっくり返りました。

それは、彼の直筆原稿の写真でした。
「ええええっ!!これは、いわゆる変体少女文字ではッッッ!!」と咄嗟に思うくらい、
すらっ!
くねっ!まるまるっ!ずらずらっ!

「うっわー!賢治の哲学的なんたらかんたらの世界が雪崩をうって崩壊!」

ビジュアルがたいへん重要な役割を果たすと、改めて身に染みた瞬間でした。
おかげさまで、現在、ワタクシの本棚には「春と修羅」が無事に収まっています。

余談ですが、ますむらひろし氏のデビュー作「霧にむせぶ夜」も、
ユーモラスでありながら、そうとう怖い漫画です!

(元記事は2013年10月9日に書かれました ・エントリー279 )

「源氏物語」1987年日本アニメ

世界的にも超有名、世界最古の小説と位置づける人さえいるあの「源氏物語」
プレイボーイで有名な光源氏の青年時代の恋模様をアニメで描いた映画だ。

なんという美しさ
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時代考証を踏まえた上で、
光源氏を「自らの想いのままに行動する自由人」として、結束しない髪、耳にピアス、小さな口に紅をさし、
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女と見間違うほど美しい青年にデザインしたのはアニメならではの手法だろう。
おかげで、彼が「私は何をしても許される身なのです」と言っても、そのようですねぇと納得してしまう。
生身の人間がこれを口にして生々しい厭らしさがあっては、源氏ではないのだ。

杉井ギサブロー監督が狙った長閑な横PAN演出、
CGを駆使した背景美術、
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林静一のキャラクター原案、名倉靖博のキャラクターデザイン、
きぬずれの音、そして細野晴臣の音楽は
今のワタクシにとって癒し以外のなにものでもない。

映画には杉井流の完璧な王朝の美の世界があった。髪の一筋一筋が微妙なニュアンスを持って美しい。
それが抑制の効いた動きとあいまって、徹底的に上品なエロスを醸し出す。

この映画では源氏と六人の女性との恋模様が描かれている。
まず「夕顔」、彼女は逢瀬の最中に亡くなってしまう。
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源氏の亡き母、桐壷にそっくりの「藤壷」
彼女は源氏の父帝の妻の一人ですから、継母ですが、源氏が執拗に迫って身ごもってしまう。
父帝はそれを知ってか知らずか、産まれた男児の後見を源氏に託して逝去。
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後に彼女は髪を切って、仏門に入る。

源氏の正妻「葵の上」。政略結婚だったのか、今一つ夫婦の愛が育たない二人。
六条御息所の生霊に命を脅かされながら源氏の子を産んだことで、やっと夫婦らしくなるも他界。
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↑これは六条御息所が憑依しているので目付きが怖い。

元東宮の妃だった「六条御息所」
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カーリーヘアで情熱的な大人の女として描かれる。
葵の上を生霊となって襲った我が身を怖れ、斎宮になった娘と共に伊勢に去ってしまう。

源氏が「ほかの誰にもどこにも渡したくない」として引き取った「紫の上」
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最初こそ「このロリコンめっ」とあきれるが、紫の姫は藤壷によく似ているだけでなく
芯のしっかりした女に成長していく。

そして「朧月夜の君」こと、弘徽殿の六の姫で、東宮(のちに帝)の妻!
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源氏が大胆なのか、六の姫が大胆なのか
あるいは二人とも大胆なのか。
逢引きを姫の父に見つかっても、源氏はさらりと和歌を詠んで扇を優雅に投げ渡す。
このスキャンダルが帝への反逆罪に問われ、彼はすべてを紫の上に頼んで須磨へ流罪になる。
 
源氏はそれぞれ本気で恋をしている。
遊びではないらしい。
源氏の付き人、惟光↓が「本当が一つだけだと、面倒を産まずに済むのですがね」と皮肉を言っても
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源氏本人は真剣に悩んでいるのがおかしい。

そんな光源氏だが、桜の花びらを幻視するたびに女性との別れが訪れる。
どうやら幼い日に母・桐壷を亡くした思い出と桜の花びらを樹のうろに閉じ込めた行為が
彼の女性に対する原風景を作ったらしい。
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ラスト近くで紫の上と結ばれた源氏は夢か現か、幽体離脱して京の都を俯瞰する。
(ここで彼のおヌードがあるのだが、それだけは美しいとはいえない。半端にマッチョだ。)

さらに彼は巨大な幻影と対峙する。青い太陽(あるいは月か)、そして大きな桜の樹。
やがて彼は舞う。
扇が現れ、烏帽子に衣冠束帯が現れ、源氏は桜と対決するかの如く、堂々と舞う。輝いて消滅する桜。

彼は亡き母への想いを、去って行った女達への想いを、昇華したのだろうか。


今回のプラスワン

高校時代などは「源氏物語」といえば
「非生産性の象徴(最上級貴族で詩歌管弦するのが仕事)マザコン光源氏」というキャラクターが好きになれず
ついでに
「古文のテストで紫式部の比喩・隠喩・遠回しで優雅な古語表現に苦しめられる忌まわしさ」がかさなって
源氏物語を敬遠していたフシはある。

谷崎潤一郎訳「源氏物語」を読んでみたりしたが、ついに琴線に触れずじまいだった。

しかし、人間年を取ると丸くなったのか。
光源氏のキャラクターを「マメ男で、本気のタコ足配線が得意技」
「宮中の権力抗争でスキャンダル起こして、弘徽殿女御にやられちゃったか」などと
芸能界&政界視点で楽しめるようになっていた。

これは夢枕獏原作・岡野玲子の漫画「陰陽師」のおかげかもしれない。
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途中から物凄い勢いで岡野ワールド全開になり
たいへんおもしろいことになった漫画だ。

平安時代&王朝文化は、あまりにも古代で、
文章で読んでも、た易くイメージ出来ない部分が多いのが難点だった。
が、岡野玲子の「陰陽師」はそれを十分補ってくれた。
しかも、彼女の当時の絵はこの映画と通じるかのように、完璧な王朝の美と象徴的な陰陽の世界を持っていた。

偶然にもワタクシの本棚にまだ読んでない「十二単を着た悪魔」がある。
「源氏物語」での悪役、弘徽殿女御を現実的なキャリアウーマンとして書いた小説らしい。
タイトルは、映画「プラダを着た悪魔」から取ったかなと推測して後書きだけ読んだら、そうだった。
母が勝手に置いていって数年放りっぱなしにしている。
この機会にちょっと読んでみようかと思っている最中だ。

(元記事は2013年10月5日に書かれました・エントリー728)

その後、読んでみたが、所詮はそこそこデキる青年がやる気出ました的オチで何かと説教くさい。
弘徽殿の胸のすくような活躍を期待しちゃいけませんでしたね。はい。
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